この階段に近づくと数年前のことを思い出す。30代くらいの男性が松葉杖を脇に抱え、階段の下をじっと見つめていた。東京のど真ん中、東京メトロ有楽町駅から日比谷駅へ続く地下通路。通勤途中の私は下から見上げていた。階段は幅約5メートル、コンクリート製の26段。昭和39年の東京オリンピックに合わせてつくられた。ラッシュ時には、人々が次々と倒れていく事故シーンが頭に浮かぶ。私はこの階段を勝手に「日比谷階段」と呼んでいる。
男性は降りるかどうか迷っているように見えた。若いし、片足でいけるかもしれない——そう思ったが、かけ上がって声をかけた。「ケンケンで降りられる?」。「大丈夫です」。大丈夫・・・。日本人がいちばん信用してはいけない言葉かもしれない。

実は、この階段には別ルートがある。そこには車椅子用の階段昇降機が設置されているが、日比谷駅までに3回の乗り継ぎが必要だ。インターホンで係員を呼ばなければ、動かせない。私はこの別ルートを「面倒だ」と、男性にアドバイスした。日比谷駅にはさらに別のバリアフリールートもある。後側にかなり戻ってB5出口から地上に出て、外堀通りを歩き、ホテルのザ・ペニンシュラ東京の脇にあるA6入口からエレベーターで地下に降りる道だ。私は実際に歩いてみた。14分31秒で2100歩ほど。横断歩道を3回渡った。段差はないが、遠すぎる。天気が悪い日を想像したくない。
あの日、あの後で、松葉杖の男性は、どうやって階段を降りたのだろうか。降りなかったのだろうか。背負ってあげれば良かった。後悔している。

「日比谷階段」は今も変わらず、ある。健常者でも10分以上歩く道がバリアフリーの代替ルートになったままだ。「日比谷階段」の前では、歩行器の高齢者も、ベビーカーの親も、大きなスーツケースを持つ外国人も立ち止まる。東京メトロは2023年にバリアフリー料金制度を導入し、ホームドアも整備した。だが、この26段だけは昭和のまま残っている。
2月、東京メトロに問い合わせてみた。すると、「ご不便をおかけしたことをお詫びします」との回答。整備計画を「検討中」とのことだった。その時期は不明だ。地下駅という限られた空間で、設置場所や工事条件などが課題だという。簡単にエレベーターを作るわけにはいかないようだ。

日比谷駅の利用者は1日平均9万3000人以上。なぜこの階段だけが都会のバリアフリー計画から取り残されたのか——明確な答えは見つからないまま、毎日、大勢の人が通り過ぎていく。
こうした「抜け落ち」はきっと、この階段だけではないだろう。東京のど真ん中で、なぜ、こうした「抜け落ち」が起きるのだろうか。東京だから、抜け落ちるのだろうか。世界の人口は80億を突破し、AI時代は猛スピードで進む。世界を、社会全体を俯瞰して見る必要もある。それでも私は、目の前のひとりを、止まりそうな空気を、見つめる心を持っていたい。